初代社長 下出 民義

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初代社長 下出 民義

大同特殊鋼の初代社長は下出民義。現在の大阪府岸和田市で生まれ、教職の道に進みますが、若くして実業界へ方向を転換。民義は名古屋で立ち上げた石炭ビジネスで成功を収めますが、その過程で福沢桃介と出会います。桃介の名古屋進出、その後の成功は下出民義の協力なくしては成し得ませんでした。今回は、実業界にとどまらず、政界、教育の場で活躍した下出民義を紹介します。

下出 民義

小学校長を辞め、実業家の道へ

下出家の第5児として生まれた次男は梅吉(民義の幼名)と命名されました。寺子屋、岸和田藩校の講習館、堺の河泉学校で学んだ後、15歳で七十九番小学の教員に就任。その後、教職を務めながら、夜は関西法律学校(現関西大学)に通い始めます。1887年、後の義兄とともに大阪石炭会社を設立。安治川小学校長を辞めて同社に入社しましたが、その会社は間もなく倒産してしまいました。

愛知石炭商会を創業

「伊勢から石炭が出る」との話を聞きつけた民義は、名古屋に移り住み、新たに愛知石炭商会を立ち上げました。従来、販売先は塩田のみと思われていた粉炭に着目し、紡績工場向けに販路を拡大すると、商売も軌道に乗り始めました。さらに、鉄道に石炭を納める入札の仲間入りを果たすと、北海道炭礦鉄道(株)との取引が始まります。そして、当時同社の監事を務めていた福沢桃介と出会います。

福沢桃介に協力

下出民義の協力により、桃介は1906年からカブトビール、豊橋電気(株)と相次いで愛知県の企業の株を取得しました。そして、1909年2月の名古屋ホテルにおける三井銀行名古屋支店長矢田績(桃介の慶応義塾の先輩)、桃介、民義の三者協議により、名古屋電燈(株)進出が決まりました。まず、民義が同社株の買い集めを始め、着実に取得を進めると、翌年桃介は筆頭株主に昇りつめ、6月には常務取締役に就任。すぐさま、桃介はライバルの名古屋電力(株)を合併し、名古屋電燈(株)の地位を確立、社長に就くと民義も常務取締役として桃介を支えました。その後、民義は1916年に桃介の創業した(株)電気製鋼所の初代社長に就くほか、大同電力(株)、愛知電気鉄道(株)などでも手腕を発揮しました。

真面目な実業人の育成を目的に東邦商業学校を創立

民義は、名古屋市会議員、衆議院議員を経て、1928年からは貴族院議員に選出され、政界にも活躍の場を広げました。また、1923年には「真に信頼しうる人格を形成する点に重きを置いて、社会の求める信用ある実業青年の育成をもって社会報恩の一端に資する」との理想のもとに、私財を投入して東邦商業学校(現東邦学園)を創立し、校主となりました。同学園創立30周年を翌年に控えた1952年8月、民義は永遠の眠りにつきました。

下出民義胸像(当社所蔵)

2014年11月、東邦学園を通じて下出民義の胸像が当社に寄贈されました。現在は、本社で所蔵しています。

略歴

1861年 現在の大阪府岸和田市で生まれる
1875年 泉州七十九番小学の教員となる
1886年 教職の傍ら、夜は関西法律学校に通う
1887年 後に義兄となる西井直次郎らと大阪石炭会社を設立
1889年 西井あいと結婚
名古屋に移り、熱田内田町で愛知石炭商会を創業
1899年 北海道炭礦鉄道(株)との取引を通じ、福沢桃介と出会う
1905年 日露戦争景気により、石炭販売で多額の利益を得る
1909年 名古屋電燈株の買い集めを始める
1912年 名古屋電燈(株)取締役に就任
1913年 名古屋市会議員に当選
1916年 (株)電気製鋼所初代社長に就任
1920年 衆議院議員に当選、大同電力(株)取締役に就任
1923年 東邦商業学校を設立
1928年 貴族院議員に選出
1952年 逝去

参考文献

尾崎久彌(編)、『下出民義自伝』(『東邦学園五十年史』別冊付録)、東邦学園、1978年。
東邦学園同窓会 東邦会、『真面目の系譜』、東邦学園、1998年。

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