中興の祖 石井 健一郎
大同特殊鋼の第8代社長は石井健一郎。現在の香川県高松市で生まれ、野球が縁で名古屋の地に進学します。ふとした勘違いで大同製鋼(株)に就職した石井は頭角を現すと1958年に社長に就任。モータリゼーションの到来を予見し、知多工場建設を決断するなど、当社の飛躍発展への道程を先導しながら、画期的な経営施策を次々と打ち出します。1973年の退任まで15年にわたって社長を務めた後も、特殊鋼業界の再編に尽力。今回は、当社の“中興の祖”と呼ばれた石井健一郎を紹介します。
野球一筋
石井家の長男として生まれた健一郎は、高松で幼少期を過ごします。優秀な学業を修めるものの虚弱体質のため、体力強化を目的に野球を始めると投手として活躍し、名門高松商業からスカウトされます。名古屋高商にも野球が縁で進学し、同校在学中の1924年に開催された第1回全国選抜中等学校野球大会(現 選抜高校野球大会)では母校高松商業の監督を務め、チームを優勝に導きました。
勘違いが招いた“大同”への入社
5大電力の1社東邦電力(株)への入社が内定していた石井は就職報告のため、郷里の先輩川崎舎恒三((株)大同電気製鋼所常務取締役)の元を訪れます。川崎舎から自分が勤める会社に来ないかと勧誘されると「同じ電力会社なら構わないか」と早合点し、その誘いに応じます。同じ "大同" でも当時の資本金は大同電力(株)の1億円に対し、(株)大同電気製鋼所は280万円。ふとした勘違いから、石井の社会人生活が始まりました。
知多工場建設を決断
初任地の熱田工場、転任先の築地工場で頭角を現した石井は若くして昇進を遂げ、民需に応じる目的で新設する星崎工場建設の実質的責任者に抜擢。その後、資材部長、東京支店長を経て1945年に取締役に就任します。戦後巻き起こった労働争議では大幅な人員整理の断行に直面するなど、事実上の経営トップとして手腕を発揮。社長就任翌年の伊勢湾台風襲来により星崎、築地の両工場が壊滅的な打撃を受ける中、復旧作業の陣頭指揮を執りました。そして、モータリゼーションの到来を予測し、資本金31億5千万円の会社が200億円もの設備資金を投じる知多工場の建設を決断し、1962年に世界最大級の特殊鋼一貫工場が操業を開始しました。
特殊鋼業界の再編に尽力
15年にわたり社長を務め、1973年に会長に就任。1976年には日本特殊鋼(株)、特殊製鋼(株)との3社合併を実現し、特殊鋼業界の安定、発展に貢献しました。1988年の相談役就任まで43年間、取締役として当社の経営に携わりました。また、財界活動にも幅広く取り組み、愛知県経営者協会会長、日本経営者団体連盟副会長、名古屋商工会議所副会頭など数多くの役職を歴任。2001年4月、老衰のため97歳で死去。5月に覚王山日泰寺で執り行われた社葬には財界関係者など約1,500名が参列しました。
石井の揮毫「人間萬事塞翁馬」
信奉する言葉を、石井自ら筆でしたためた書。現在は、技術開発研究所で所蔵しています。
石井健一郎が建設に携わった工場
星崎工場(1937年操業開始)
民需専用の工場として新設。当時30代半ばの石井は工場用地の買収、埋立てから機械設備の発注、据付に至るまで実質的責任者として指揮を執りました。
知多工場(1962年操業開始)
1958年に社長に就任した石井は、海外視察を通じて自動車の時代が来ることを予見。特殊鋼の未来は自動車とともにあると確信し、世界最大級の特殊鋼一貫工場建設を決断しました。
略歴
1903年 | 香川県香川郡檀紙村(現在の高松市)で生まれる |
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1923年 | 香川県立高松商業学校卒業 |
1926年 | 名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業 |
1926年 | 大同製鋼(株)入社 |
1945年 | 取締役 |
1949年 | 代表取締役常務取締役 |
1950年 | 代表取締役専務取締役 |
1953年 | 代表取締役副社長 |
1958年 | 代表取締役社長 |
1973年 | 代表取締役会長 |
1976年 | 大同製鋼(株)は合併により商号を大同特殊鋼(株)と変更、同社代表取締役会長 |
1982年 | 取締役相談役 |
1988年 | 相談役名誉会長 |
2001年 | 逝去 |
石井健一郎杯 大同フェニックスカップ
大同特殊鋼ハンドボール部、東海市ハンドボール協会が主催し、当社などが後援する小学生のハンドボール大会。石井健一郎の「青少年の心身の健全な育成と生涯スポーツの場を提供したい」との思いを込め、2000年にスタート。2016年2月に開催された第16回大会には全国から49チーム約850人が参加し、日ごろの練習成果を競いました。
参考文献
和木保満、『天翔ける鋼 -大同特殊鋼と石井健一郎-」、中部経済新聞社、1987年。