民需品の生産始まる
軍需用特殊鋼生産の道を閉ざされた当社は普通鋼、加工完成品部門に進出、民需品の生産を始めました。1945年10月から、星崎工場で農機具用鋼、大江工場はレンガ、車両修理、安城工場は唐鍬、備中鍬、つるはし、すきやきなべ、川崎工場は鉄道用・車両用・自動車用バネ、宮古工場ではフェロアロイを、11月からは星崎工場で中空鋼、線材、翌12月からはさらに3工場が加わり、熱田工場では農機具、鉱山用機械部品、鉄道車両用部品、尼崎工場で薄鋼板、東京工場では巻バネ、針金バネの生産を開始。そして、建設を進めていた石狩工場も完成し、合金鉄の生産を開始、1946年4月からはカーバイドの生産に切り替えました。
農機具の生産から始まった星崎工場は鉄道車両の保修用としてバネ、またシートバー用普通鋼鋼塊の製造を開始。しかし、旧軍工廠などから戦時中に生産された特殊鋼鋼材の大量放出を受け、特殊鋼の需要が激減。政策面でも普通鋼に補給金が支給されたことから、星崎工場も量的には特殊鋼から普通鋼への切り替えが必要となったため、1947年9月に普通鋼線材の生産をスタート。年を追うごとに線材の生産量は伸び続け、星崎工場は線材ブームに湧きました。
安城工場では、政府の重点政策の食糧増産の方針に沿って、備中鍬、開墾鍬、唐鍬などの農機具の生産を開始する一方、当時需要の大きかった自転車の生産にも着手。しかし、1947年に入り農機具の販売が行き詰まると、石炭増産の国策に見合った製品への生産シフトを進めますが状況は厳しさを増すばかりで、工場閉鎖への道を早めることとなりました。
熱田工場は、戦時中から鉄道車両用輪芯などの民需品を生産していた関係から、民需への転換は容易で、1946年度においては当社唯一の黒字工場として将来を嘱望される存在でした。しかし、1948年度から受注量が激減、他の鋳鋼メーカーとの競争が激化し、1949年度からは原価割れの様相を呈し、工場閉鎖が決定的なものとなりました。
戦時中軍需品の鍛造工場として有数の規模を誇った築地工場は、民需転換への困難さから一時閉鎖の時期を設けたことにより他工場からやや遅れたものの、1946年2月に鍛造品、備中鍬、銑鉄、鋼塊の生産から操業を再開。しかし、苦難は続き、1949年には戦時中に拡大された設備を縮小するため、大幅な設備の解体売却が行われました。
また、旧名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所を借り受け、1946年1月に操業を開始した星崎工場高蔵製作所は、灰皿、フライパンなどの生産をスタート。8月には高蔵工場と改称し、生産品種の幅を拡大していきますが、1948年7月に東海財務局から賠償施設撤収の通達に接すると、一時従業員と施設を星崎工場へ移しました。1949年3月に再び使用許可がおりると、星崎工場分工場として再出発。しかし、翌年東海財務局から改めて完全閉鎖の通達を受けると、星崎工場鉱山機器製造部門として生産を継続することとなりました。