富永鋼業(株)を合併、普通鋼板に進出

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富永鋼業(株)を合併、普通鋼板に進出

民需対応を目的に建設された星崎工場も、稼働開始翌年の1938年に軍の管理下に置かれました。鉄帽の生産を担当し鋼板が必要となると、富永鋼業(株)との合併話が持ち上がりました。

当時の富永鋼業(株)は鋼塊の自給、大型鋳鍛鋼品の製造を目的に大阪工場を建設し、生産の範囲を従来の民需から軍需まで広げるため、多額の設備資金を必要としていました。他社との合併話も検討されていましたが、最終的には1941年10月に当社と合併し、富永鋼業(株)は解散。当社は資本金を1,400万円増額して6,600万円に、尼崎、大阪の両工場を加え、新たに鋼板、線材製品、大型鋳鍛鋼品などの生産に進出しました。

富永鋼業(株)は、1898年に富永機輔が神戸で鉄、鉄板類を輸入する富永商店を興したことに始まります。第一次世界大戦を経て鉄への注目度が上がると、機輔の後を継いだ富永恒太郎は北九州の小倉製鋼所の大株主となり、同所製品の関西における販売権を獲得。同社の事業を軌道に乗せるとともに、鉄スクラップ輸入業にも進出しました。

富永商店創立者 富永機輔

その後、製造業への転換を決意。1924年に尼崎の工場を取得し、尼ケ崎工業所と名付けて亜鉛鉄板の生産を開始しました。1931年には尼崎市杭瀬に工場を移転し、ここに尼崎工場が誕生。薄板工場、条鋼工場を建設し、製品ラインナップの充実化を図りました。そして、1934年には富永鋼業(株)に社名を変更し、同社は新たなスタートを切りました。その後、大阪市西淀川区の土地を取得し、1937年に大阪工場の操業を開始。大阪工場は拡張工事を展開し、軍需工場としての地位を確立していきました。

尼ケ崎工業所(1925年)

当社との合併以降は、尼崎、大阪両工場とも軍需工場として設備拡充に着手。尼崎工場は特殊鋼専用薄板、鉄帽工場の建設を進めましたが、工場の完成前に終戦を迎え、戦後は建物一切を売り払われ、姿を消しました。また、大阪工場は軍需品増産を目的に新鍛造工場の建設が進められましたが、資材入手難のため、こちらの工場も日の目を見ることはありませんでした。

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