空襲激化、疎開を進める

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空襲激化、疎開を進める

名古屋地区の空襲は1944年12月に始まり、翌年7月まで継続。市街地の大部分が焼き尽くされるほどの大きな被害を受けましたが、当社も築地工場を皮切りにほとんどの工場が爆撃を受けました。名古屋市西区御幸本町の滝兵ビルにあった本社分室も1945年3月の大空襲で全焼したため、東区赤萩町の東邦商業学校へ移転。名古屋地区の主力工場は5月、関西地区は6月に大空襲に見舞われ、工場としての機能は完全に麻痺状態に陥りました。この間における、全国の当社関係の被爆回数は36回、警報発令回数360回、作業停止時間は2,224時間に到達。かろうじて工場の主要生産設備の被害はわずかであったものの、終戦直前の7月と8月初めの生産はピーク時の10分の1に落ち込みました。

空襲が激化する中、1945年4月1日には時の軍需大臣吉田茂から当社に対し初の疎開命令が下されました。しかし、土地の入手、物資輸送などが困難を極め、計画通りに進めることはできませんでした。具体的に進められたのは、星崎工場設備の岐阜県土岐津市、大井市郊外や金沢市外、築地工場設備の岐阜県大矢田村、高山市郊外、長野県福島町への疎開などわずかなものでした。国内での疎開を進める一方、満州、朝鮮への大規模な疎開計画も推し進められましたが、設備を積んだ船が撃沈されるなど、ほとんどが実現に至らないまま終戦を迎えることとなりました。

工場分散疎開命令書(1945年4月)
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