関東製鋼(株)の成り立ち

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関東製鋼(株)の成り立ち

1964年に大同製鋼(株)と合併した関東製鋼(株)は、関東水力電気(株)佐久発電所の豊富かつ低廉な余剰電力を利用するために誕生しました。同様の意図をもって、浅野カーリット(株)が浅野セメント(株)から分離独立して1934年3月に設立、次いで1937年2月に関東製鋼(株)が設立、翌1938年9月には関東電化工業(株)の設立と、余剰電力の事業化が相次ぎました。

関東水力電気(株)は、初代浅野総一郎が当社の創業者福沢桃介から譲り受けた利根川上流の水利権を利用し、発電事業を目的に1919年に創立した会社で、発電所は1927年に群馬県の赤城山麓に完成。1938年にその出力が75,000kWにまで増大したため、当時の関東水力電気(株)浅野八郎社長が余剰電力の事業化を計画していたところ、中央電気工業(株)広田口工場長の長崎義男が「低炭素フェロクロム製造方法の特許出願権」による事業化を浅野社長に持ち込み、これが実を結んで同社は誕生。関東製鋼(株)は、1937年2月27日に関東電気製錬(株)という社名で、関東水力電気(株)の子会社として発足しました。工場敷地は、輸送上の利点を鑑み、上越線渋川駅南側の隣接地に決定し、渋川工場と命名されました。

日華事変の勃発は軍備向け特殊鋼の需要増大をもたらしたため、同社は計画を変更し、フェロアロイの製造と、それを自家使用する特殊鋼製造事業を進めることを決断し、フェロアロイ工場と並行しアーク炉による製鋼工場の建設を進めました。1937年11月27日、初代渋川工場長に長崎常務取締役が就任し火入れ式が行われ、ここに渋川工場が誕生しました。1938年11月には、関東製鋼(株)に社名を変更。その後、戦局の急伸に伴い主要施設の拡充が相次ぎ、工場の規模は飛躍的に拡大していきました。関東製鋼(株)は、創業以来終戦時まで順風満帆の勢いに乗って業績は上昇し、終戦時には鋼材月産3,000トンの規模にまで発展しました。

初代渋川工場長 関東製鋼(株)常務取締役 長崎義男

しかし、1945年に太平洋戦争が終結すると同時にわが国の軍需産業は壊滅し、同社は大きな打撃を受けました。平和産業への再起を図り、翌1946年から農機具用素材、トラック、自転車用バネ鋼、カーバイドなどの生産を開始し、産業界の回復を待ちました。1951年中ごろから、朝鮮動乱の休戦とともに鉄鋼需要は減退したため、 同社の経営はますます苦境に陥ります。その後、富士製鉄(株)の支援を受け、同社は普通鋼メーカーから本来の特殊鋼会社に戻る道を選択し、設備の整備を進めました。

再建に踏み出す機会は神武景気とともに到来し、これに伴い1953年以降赤字決算を重ねてきた同社も業界の立ち直りとともに黒字に転換し、業績も拡大の見通しが立つに至りました。そして1956年以降、日本経済の拡大基調による特殊鋼業界のめざましい発展の中で業績は急速に伸長し、販売部門の強化策を進めました。

しかし、特殊鋼業界は1962年以降再び不況の様相を見せ、次第に深刻化の一途を辿りました。特殊鋼の量産鋼種の分野は量産設備を有する大手兼業、専業メーカーの進出により、同社を含む中堅企業はコスト競争力に劣るため、多種少量生産の高級鋼種の分野を指向せざるを得ない状況に追い込まれました。同社は、量産鋼種および不採算鋼種の販売を縮小もしくは打ち切り、ステンレス鋼および高級工具鋼を中心に体質改善を図りましたが、利益を計上することが困難となりました。そして 富士製鉄(株)のあっせんにより、1964年7月1日に大同製鋼(株)と合併することになりました。

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