終戦からの再出発

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終戦からの再出発

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦は終戦を迎え、翌9月には連合国軍最高司令部(GHQ)が日本陸海軍解体、軍需工業停止を目的とした一般命令第一号、第二号を発令。当社においても軍需生産と決別、再建の道が始まりました。

終戦後第1回の役員会は当時本社分室の置かれていた東邦商業学校で8月30日に開催され、下出義雄社長は「工場転換業種計画の樹立」、「築地、神崎両工場の一時閉鎖」、「従業員の整理」、「戦災、地震などによる戦争保険の請求」、「関係会社の整備、その他」の実行により、伝統ある会社を守り抜くため、ただちに可能な範囲で生産を再開し、企業の再建を図ることが決定しました。

神崎工場

そして、終戦時に33,154名にのぼった従業員は、敗戦による工場生産の一時停止により離職者も相次ぎましたが9月30日付で全従業員をいったん退職させ、改めて必要最小人員を10月1日付で再採用し、約5,000名で当社は再スタートを切りました。

工場の生産については、建設中の四日市、鶴崎両工場の工事を停止、大阪工場は閉鎖、神崎工場、築地工場も一時閉鎖し、当時欠乏していた民需品の生産再開を決定しました。幸いなことに主要生産設備の被害が少なかったおかげで、10月から星崎、安城、川崎、宮古の4工場が再始動。12月には熱田、尼崎、東京の3工場、1946年2月からは築地工場が操業を再開しました。しかし、GHQの方針が明確とならない中での再出発であったため、同年3月末までの期の売上高は戦時最高潮時の3分の1程度にとどまりました。

宮古工場
尼崎工場

また、1945年12月には労働組合法が公布され、日本各地で労働組合が驚くべき勢いで設立されました。当社においても1946年2月の星崎工場を皮切りに、4月までにほぼすべての全事業場で労働組合が結成され、4月15日にはその連合体である大同製鋼労働組合連合会が誕生しました。

第五代社長 中村 秀夫

5月には改めて大幅な新しい役員の登用が行われ、経営陣の一層の強化が図られました。11月に第2次公職追放者が発表される中、新体制で引き続き経営を継続していたものの戦時中の常務クラスも公職追放者に該当することとなったため、12月には就任してわずか9カ月の中村秀夫社長はじめ3名が辞任。

当面は社長を置かずに取締役会長および専務取締役制の採用が決定し、日本興業銀行の理事から当社監査役に転じていた中山喜久松が取締役会長に就任し、新たな陣容で再出発を遂げました。1947年1月には改めて公職追放令を改正する勅令第1号が公布施行されましたが、中山会長以下18名の取締役は全員非該当であることが決定し、企業再建に専念できると思ったのも束の間、公正取引委員会委員に就任するため中山会長が突如7月に会長の職を辞任することとなりました。

取締役会長 中山 喜久松
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