人員整理に抵抗、労働争議が発生

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人員整理に抵抗、労働争議が発生

1949年2月にまとめた3社分割案には、総従業員9,718名のうち2,630名を整理する計画も含まれていました。整理対象者の選定にあたり、技能経験の浅い者、勤務状況の良くない者、勤続年数の短い者などを選び出した結果、約2,300名をリストアップ。2月24日には再建整備を円滑に進めるための臨時組織として本社に企業整備対策本部、各工場および旧本社にそれぞれ支部を設置、計画を実行に移す検討段階に入りました。

3月15日、ついに人員整理案が発表されるやいなや、組合側は完全雇用を盾に「絶対反対」を表明すると同時に「組合の承認なしに工場の閉鎖、休業、売却などを行ってはならない」旨の仮処分を名古屋地方裁判所に申請。工場ごとの交渉、26日には大同労連との団体交渉もついには決裂し、個人宛に解雇リストが発送されましたが、組合側もハンスト、会社幹部のつるしあげなど様々な手法で抵抗を続けました。

その後も会社側からの労働協約の無効通告、組合側から有効確認の仮処分申請と係争は続きましたが、4月25日に会社側の申し立てが認められ、組合側の申請は却下。その後、会社側は4月末に安城、大江、東京3工場の10日間にわたる臨時休業を宣言、5月7日には解雇者の工場への立入禁止仮処分申請を名古屋地方裁判所に提出するなど、早期解決を図るための強硬手段を取りました。このように長く激しい労働争議により、労使間の信頼関係は完全に失われてしまいました。

そして5月19日、東京、川崎の両工場は円満妥結し一切の訴訟を取り下げて共闘から離脱。翌20日、築地、熱田の両工場も正式受諾し、無期限ストとハンストを中止。大江工場が24日、安城工場も30日に妥結。最後まで戦い続けた星崎工場も、6月6日に愛知県副知事のあっせん案を受諾するに及び、2,312名の人員整理を達成し、2ヵ月半にわたる労働争議に終止符が打たれました。労働争議の事態収拾後に決められることになっていた役員、幹部の進退については、少しさかのぼること5月30日に常務取締役の竹内保資ら9名の役員の退任が決定、次いで幹部社員の人事も発令。そして6月15日付で竹内が代表取締役も辞任したため、21日に常務取締役の石井健一郎(後に第8代社長に就任)が代表取締役に就任しました。

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