星崎、平井工場 設備の近代化進む

topics

星崎、平井工場 設備の近代化進む

鋼材事業部の知多、星崎、平井の3工場は、それぞれの生産設備に合わせて生産鋼種を調整する形で体質改善が進められました。知多工場は量産鋼種を生産すると同時に鋼塊の生産能力に余力ができればビレットセンターとして星崎、平井両工場にビレットを供給、星崎工場は加工度を高めるとともに高級鋼を生産し、平井工場は関東地区にある立地条件を生かし、大幅な生産性の向上と品質の向上をめざす計画でした。

星崎工場では伊勢湾台風までに製鋼、圧延部門の合理化がほぼ達成されていたため、1960年からは二次加工部門の設備合理化が中心となりました。製鋼部門においては1961年3月9日に戦後造塊量100万トンを達成し、その5年後の1966年11月には同200万トンの大台を突破しました。一方、圧延部門では知多工場の稼働以降、次第に多種少量ロットへと生産規模の構造が変化し、鋼種はステンレス鋼、バルブ鋼、工具鋼などの高級鋼、形状は平角製品、溝付平製品などの圧延量が漸増しました。また、線材工場では1963年7月に棒鋼圧延を中止し特殊鋼線材専一の体制にシフトし、各圧延機ともステンレス鋼を中心に高級鋼の生産比率を高めていきました。

星崎工場 戦後造塊量100万トン達成(1961年3月)

棒鋼二次加工部門においては熱処理設備が増強され、加工用諸設備は磨き棒鋼の旺盛な受注に応えるために棒鋼第1次合理化計画が進められ、1960年に磨き棒鋼加工工場が完成。以後3次にわたる設備増強により生産能力は同年の月300トンから2,500トンへとわずか数年のうちに8倍以上に伸長し、わが国でも屈指の磨き棒鋼生産工場に発展しました。また、棒鋼加工品のうち、当社の特色品の一つに数えられる中空鋼は伊勢湾台風を機に進められた集約により合理的な生産体制が構築され、国内生産量の7割を占めるまでに至りました。

また、線材二次加工部門は棒鋼加工以上の躍進を遂げ、1959年に月400トンの設備計画を実行して以来、新工場の建設が相次ぎました。1961年にステンレス鋼線が活況に沸くとともに新製品溶接棒DS1を量産化。その後も設備投資が続き、1965年には月産3,600トン計画を達成し、6年前の9倍に躍進しました。

星崎工場は大量生産方式の知多工場建設に対応し、加工度の高い高級鋼中心の工場に体質改善を遂げました。そして、星崎工場はテルル快削鋼の開発と、ステンレス鋼、耐熱鋼、軸受鋼などの品質向上と原価低減を推進し、受注拡大と収益向上に大きな役割を果たしました。

星崎工場 棒鋼加工工場

一方、伊勢湾台風により打撃を受けた鋼材部門の減産カバーに大きな役割を果たした平井工場は知多工場の建設に関連して鋼材部門内での生産鋼種の調整策として、関東地区にある立地条件を大いに生かすとともに緊急の注文に対応できる体制の確立に向かって合理化を進めました。

1960年を最後に8トンアーク炉3基のレクトロメルト式化更新を行った製鋼部門では、鉛快削鋼が主製品に成長し、造塊量も1959年の400~500トンから1,300~1,500トンに発展。鉛毒予防処置も順次とられ、1961年に造塊ヤードの拡張工事が実施され、鉛快削鋼の増産体制が確立されました。そして、1963年にはステンレス鋼の量産も開始され、1965年にはその能力は2倍に向上。また、圧延部門においても能力増大を図るため中形粗ロール一式を設置し、中形製品の大手メーカーに成長。それに呼応する形で関連部門の能力増強やレイアウト改善が進められ、平井工場は大きな変容を遂げました。平井工場は、棒鋼を中心に平鋼、帯鋼、異形が主となり、小形サイズが多く、需要家の要望に応ずる少量生産も容易で機動性を発揮、なかでも帯鋼は当社唯一の生産工場として鋼材事業部内において重要な役割を果たしました。

平井工場

421/570

関連記事RELATED ARTICLES