伸展 1952年~1963年 特殊鋼専業のトップメーカーへ

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伸展 1952年~1963年 特殊鋼専業のトップメーカーへ

当社の100年の成長の過程を5つの時代に分け、それぞれどのような道を歩んできたかについてダイジェストで紹介していきます。第1回「創成」に続く、第2回は「伸展」。1952年から1963年にかけて、戦後の復興から知多工場建設までの道のりです。

民需拡大で戦後復興を支える

朝鮮戦争の特需により、大同製鋼(1953年に新大同製鋼から改称)も急速に業績を回復し、需要の拡大に備えるためいち早く事業の再編に乗り出しました。

1955年には新理研工業との合併で王子、平井などの工場を加えました。また、ハウジング、溶接材料、中空鋼などの民需向け製品の開発と生産に取り組み、こうした製品は大同製鋼の屋台骨のみならず、わが国の戦後復興とそれに続く経済成長を支えました。さらには、米インランドスチール社、西独ヘレウス社、米レクトロメルト社などと技術提携を進め、積極的に海外技術を導入し、技術水準の向上を図りました。

一方、1959年9月に襲来した伊勢湾台風では星崎工場や築地工場、大同病院、寮などが被災し、社員や家族212人の命が失われました。
被害は甚大でしたが、労使、協力会社が一体となっての救援復旧活動に乗り出し、早期の操業再開を果たしました。これを機に、あらゆる労働条件を話し合いで解決していくという労使協調体制がより一層強固となりました。

伊勢湾台風で被災した星崎工場(1959年)

社運をかけた知多工場の建設

1958年、石井健一郎が社長に就任し、更なる競争力の強化に取り組みます。石井は1950年代後半から60年代にかけ、モータリゼーションの到来による特殊鋼需要の急速な拡大と、来るべき貿易自由化による国際競争の激化を見越して、知多工場の建設を決意しました。

1961年から始まった工事で投入された資金は、立案時の資本金の4倍近い約120億円に達したものの、知多工場は特殊鋼メーカーとしては世界最大規模で、製鋼、分塊、圧延の一貫工場となりました。

1962年に特殊鋼の輸入自由化が実施されたこともあり、業界は過当競争による価格低落に苦しみました。そうした中、大同製鋼は社運をかけた知多工場の建設を成功させたことで、最新鋭の設備による高品質な鋼材を年100万トン生産する体制が整い、質と量の両面で特殊鋼専業のトップメーカーとしての地位を磐石のものとしました。

知多工場竣工披露式(1963年)
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