高蔵工場 再始動

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高蔵工場 再始動

1952年12月に東海財務局から、長期にわたり閉鎖されていた高蔵工場(名古屋市熱田区)を5億8,370余万円で払下げることに成功しました。高蔵工場として再発足した旧名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所の主要設備は空襲の被害を受けずにすんだため、中口径薬莢、弾丸製造施設として日本でも群を抜く性能を有していました。

さかのぼること1952年3月、連合国軍最高司令部(GHQ)は日本の兵器生産を許可、翌4月にはサンフランシスコ平和条約が発効し、日本の主権回復が認められました。高蔵工場は在日米軍調達本部からさっそく60mm迫撃砲弾26万5,000発を受注、当社の一工場として再始動を果たしました。翌年3月には定款を変更し、営業品目に武器製造販売を加え、砲弾の生産を開始しました。

当社は払下げが内定すると、1952年11月に高蔵臨時建設部を設置し、払下げ機械の調査、整備から操業までの準備に着手、翌年1月に同部を廃止し高蔵工場を設置するとともに特需部を新設し、特需の受注と生産体制の仕上げを急ぎました。そして、4月28日には高蔵工場(敷地面積 94,840m2余)の開場式が盛大に執り行われました。

高蔵工場 開場式

兵器の生産は、米軍の厳しい規格をクリアすることが必要なため、その製造技術の会得は容易ではありませんでしたが、1953年6月ごろから生産は軌道に乗り始めました。しかし、新規受注品の消化を進めるものの、設備能力の1割程度にしかならない砲弾だけでは工場の維持発展が望めないため、民需の搾出品に活路を求めました。単純な仕様から生産を始めた搾出品は、自動車用足回り部品、軸受材、パイプとラインナップを広げ、自動車の量産が本格化するにあたり、リヤーアクスルチューブの需要開拓を進めました。

リヤーアクスルチューブ

しかし、砲弾の受注は相変わらず微々たる状況のまま推移し、民需品も莫大な生産設備の能力を埋め合わせるには至らず、高蔵工場は当社の収益率の低下を招く足を引っ張る存在となりました。その結果、第4期(1951年9月30日)に2割配当を出すほど好調だった当社の業績も、第8期(1953年12月31日)の決算で無配に転落しました。

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