特殊鋼一貫製造工場の建設を決断

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特殊鋼一貫製造工場の建設を決断

わが国の特殊鋼産業は1950年に勃発した朝鮮動乱を機に復調をみせ、その後の自動車産業などの急速な発展による特殊鋼需要の旺盛化に伴い、興隆期を迎えました。しかし、小規模の特殊鋼メーカーが乱立するとともに、主原料である鉄スクラップの数量、価格の両面にわたる不安定さが収益計画を狂わせる大きな要因となりました。

終戦後、トン当たり246円という統制価格でスタートした鉄スクラップの価格は上昇を続け、さらには朝鮮動乱の勃発が急騰を招く結果となり、1951年3月には16,000円にまで上昇し、価格統制は同年7月に廃止。その後も市況の動きに応じて変動し続け、1956年5月には3万円、8月には3万8,000円と異常な高騰をみせ、特殊鋼の販売価格に吸収することが困難となり、コストに及ぼす影響はますます重大なものとなりました。また、貿易自由化を控える中、国際競争力の強化が喫緊の課題であり、また国内においても普通鋼メーカーによる特殊鋼進出が相次ぎ、特殊鋼業は内憂外患の状況に追い込まれました。

当社は、特殊鋼業界の再編を進める先駆的な役割を果たすべく、新理研工業(株)(株)東京製鋼所と合併、さらに設備合理化長期計画を推進し、特殊鋼の品質向上、コストダウンへの道を切り開きました。しかし、特殊鋼メーカーの乱立、原料不安、普通鋼メーカーの進出などの脅威に立ち向かうには抜本的な対抗策が求められました。さかのぼること1952年、当時の石井専務は欧米を視察し、工具鋼を中心とする高級特殊鋼は発展の余地が乏しく、ステンレス鋼板にただちに着手するには問題が多いと判断、自動車産業の伸びに着目し、構造用鋼を中心とする量産鋼種こそが、当社の将来を約束するとの確信を得ました。

その後鉄鋼業は1954年に入ると不況に直面し、設備能力を拡充していた一貫メーカーは生産規制により抑制せざるをえなかった生産余力を特殊鋼にシフトする傾向が強まり、この流れは1958年から顕著に現れ、大量生産方式による低価格での自動車業界への売り込みは電炉メーカーにとってまさに脅威となりました。そこで、当社は恒久的な対策として、世界最新鋭の技術の粋を結集した新工場の建設を決断することとなりました。

おりしも、1958年5月に中部地方で初めてとなる銑鋼一貫体制による大製鉄所を設置しようとの中部経済連合会からの要請に対し、富士製鉄(株)永野社長から“建設協力”の回答がもたらされ、東海製鉄(株)の設立、大製鉄所の建設がスタートすることとなりました。それと機を同じくして、当社の石井社長は同月、中部経済連合会に対し、新製鉄所の誘致に関連して「特殊鋼分野の生産は全面的に大同製鋼(株)を活用されたい」との要望を表明。当社が東海製鉄(株)に隣接した銑鋼一貫の新鋭特殊鋼工場が建設できるよう協力を要請するとともに、東海製鉄(株)から溶銑、発生スクラップ、ビレットなどの供給を受け、特殊鋼の原料問題の解決策の一環としたいとの意思を初めて公表しました。また、石井社長はこのころ同業他社に共同で特殊鋼ビレットセンター建設を呼びかけましたが、実現しませんでした。そして、1960年1月の取締役会での決議を経て、新工場建設の発表へと至りました。

1960年1月29日、社内における全体労使懇談会の席上にて石井社長は新工場建設の構想を述べ、貿易自由化のためには原価の引き下げが必要であり、新工場建設は必ず成し遂げなくてはならないとし、またこの方向をたどることのみが当社の発展する唯一の道である点を力説して不退転の決意を示し、全社の協力を求めました。当時資本金31億5,000万円にすぎなかった当社が、総工費200億円にも及ぶ大事業に立ち向かおうとしていたことは、誠に容易ならざる決断であったことがうかがえます。

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